おはようございます!
33/52周目の朝も元気に岡城がお送りします^ ^
まだまだ終息を感じられない日々は、私たちの心を蝕みます。
心ない発言や、行動を聞いたり見たりするのは、なんだかなー、と。。
コロナは誰のせいでもないので、国や政府、県や自治体の責任だけ(ゼロとは言わない)ではなく、「自分自身で出来ることは?」「私たちに出来ることは?」そんな視点で考え、行動したいな、と思う今日この頃です。
そんな時に思い出すのは、「托鉢(たくはつ)」の因果の道理について。
ご存知の方もいると思いますが、この「托鉢」について考え、自分自身の行動を振り返ってみたいと思います。
「托鉢(たくはつ)」
僧侶が鉢(お碗のようなもの)を手に持って周り、お金や食糧をいただく行為
ある日、釈迦は2人の弟子を連れて托鉢に出かけました。
その際に右か左の道を選ばなくてはいけなかったのですが、釈迦は迷わず右の道へ
弟子の1人が
「お釈迦さま、失礼ですが、道を間違われたのでは?」
「こちらの道は、大変貧しい者の住む集落に向かいます。そんな村に行かれても、お布施する人はいないでしょう。反対の道ならば、大地主や大商人たちの住む町ですから、お布施も多くありましょう」
それに対して、お釈迦さまは言いました。
「道を間違えてはいない。この道が貧しい村に通ずることは知っている。」
「お布施は貧しい者ほどしなければならないのだ。彼らが現在、餓死するほどに貧しいのは、過去世でよ欲深く、お布施の功徳を積まなかったからである。」
「お布施を励んだ人は、恵まれた家に生まれ、施しをしなかった人は、貧しいところに生を受ける」
「彼らは自らの報いを受けているのだ。貧しい中から、米一粒でもお布施をして、功徳を積むならば、それにより、彼らは今の苦しい状態から抜け出せる。」
「長者の万灯よりも貧者の一灯、お布施の尊さは量にはよらない。貧しさに苦しんでいる人ほど、お布施をしなければならない」
という話。
お釈迦さまが何かをもらうために托鉢をしているなら、お金持ちの住む町に行けばいいですよね。ただ、その必要もなかったと言われているのは、お釈迦さまは王族の生まれで、一切の不自由がなかったと言います。
【まとめ】
この話をどう解釈するかは人それぞれです。
私は、この話の本質は他者の環境や状況を推し量ることもなく「してもらうのが当たり前」の人は、結局自分自身を苦しめ続けるってことじゃないかな、と解釈しています。
どんな状況であれお布施=親切=自分が出来ることって、どんなことでもあるわけで。
してもらうのが当たり前
してくれない人、会社、社会が悪い
そうではなくて、足りないからこそ、不十分だからこそ、そんな状況であっても出来ることをする大切さを説いている話なのではないかと思うのです。
コロナは、今まで誰も経験したことのないような状況を生み出しているのは事実です。ですが、状況・環境によって自分自身の心まで貧しくしてしまうかどうかは、やっぱり選べるんじゃないかな、と。
この話、みなさんはどう感じますか??
岡城良太